スルメ雑記帳

スルメ大好きな夫の書いたものを、妻がアップしているブログです。妻の解説もあるよ!

「習い性となる」について

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この言葉は一般に、習慣はやがて生まれながらの性質と同じようになってしまう、「習慣は第二の天性」という意味の故事成語として知られている。また、習い性(ならいしょう)という誤った語構成で理解される例としてもしばしば取り上げられ、ちょうど「間髪を入れず」を「かんぱつ」という誤った語構成でとらえるのと同種の過ちの例である。その過ちの原因は単純で、もとの漢文を知らないからである。後者の原文は「間不容髪」で、「間」と「髪を容(い)れず」の間には読点が入る。(正確には「間」は副詞なので「間に」だが。)

 

一方、「習い性となる」についてだが、以前の私は、意味から考えてもとの漢文が「習為性」だと思い込んでいたが、復文に関する書を読んでいて、『書経』の一節「習与性成」が原文と知ったのであった。その原文を知って、私は大変な違和感をもった。なぜなら、その原文の意味を忠実に翻訳すれば「慣れ親しんだことは生まれつきの性質とともに完成する」という意味だからである。注意が必要なのは、大和言葉では同じ「なる」でも、漢語の「為」と「成」はもともと別語であることである。そのことは音が似ていない(「ゐ」と「せい」)ことからも分かる。「為」は西洋語で所謂「copula(繋辞)」で、AとBが等しい(等しくなる)ことを意味するのに対して、「成」は「完成」という熟語に見られるように「出来上がる」という意味である。試しに手元にある古典中世漢英辞典の「成」の項目を見るとcompleteやfulfillとあり、to formの延長としてbecomeやdevelop intoと記されている。つまり成熟して出来上がるということである。日本語では、「青い柿が赤くなる」ことと「成熟して柿の実がなる」ことに区別はないが、漢文では異なる(前者が「為」で後者が「成」)。

 

 

私が違和感を抱いたのはそのような原漢文の意味と、「習い性となる」という慣用句の意味との間にずれを感じたからである。つまり、現代では「習慣が天性へと変化していく」というような意味で解されているが、元来はかなりニュアンスが異なる意味だったのではないかという疑念が頭をもたげてきたのである。書経の一節を原文に忠実に分析的に見てみると、まず骨格は「習成」で、「慣れ親しんだことが形となって出来上がる」。そこに「生まれつきの性質と一緒に」という意味の「与性」が補足されている。よって、習慣が出来上がっていく過程で、生まれつきの性質が関与するという意味で、習慣が天性へと変貌を遂げるのではないのである。あるブログにあった書経の訳文では「習慣将同生性相結合」(習慣が生まれつきの性質と結びつこうとしている)とあり、原文のニュアンスをうまく反映しているように思う。譬えて言えば、習慣という青い柿の実が天性という赤い柿の実になるのではなく、一つ一つ天性が異なる柿の木に応じて(関与)、習慣という太陽を浴びて、その人の性格という柿の実が熟していくということだ。

 

 

ここで、原文である『書経』の文脈を確認しておこう。悪しき習慣を改めない王に向かって、臣下の宰相が「王は不義を働いている」と諭した後で、「習与性成」という言葉が続く。つまり、このまま悪い習慣を続けていると、王の気質と相まって、悪い習慣が出来上がって身に付いてしまうので気を付けなさいと諫めているのであって、王の生まれつきの性質のようになってしまうとは言っていない。

 


しかし、この箇所の後代の解釈は、例えば『尚書正義』には「習行不義、将成其性」(不義を行うことに慣れると、きっと生まれつきの性質になってしまうだろう)とあって、同時代の白居易が「習以成性」と書いていることにも符合し、唐代には現代語と同じ意味で解釈されているのが分かる。

 

 

諸橋大漢和辞典の「与」の項目に、「如」(ごとくす)の意味が「事必与食」という例文とともに載っており、それを「習与性成」にあてはめて、「習い性のごとく成る」つまり「慣れ親しんだことは、生まれつきの性質のように出来上がる」と解して、やはり「習慣は第二の天性のように働く」と解するものがある。しかし、諸橋大漢和の例は動詞の用法であり「猶」に置き換えられるが、「習猶性成」という文は少し漢文に親しんだものなら違和感があろう。また、動詞を伴う場合は「蓋之如天」(之を蓋ふこと天のごとし)のような語順になるはずで、同じ伝で「習成如性」→「習成与性」という語順になっていなければならない。出典が「書経」で古いからなのかもしれないが、やはり、「与」の位置から、「習慣が出来上がっているのには天性があずかる」という本来の「与」の意味で考えたいところである。


では、もし私の『書経』に関する解釈が正しいとすれば、習慣が身につく人はどのような人と示唆していることになろうか。例えば、親が子供の頃から習い事をさせるのは、習慣が天性になると期待しているからだが、全ての子供がひとしなみに同じことを習慣づければ、同じ能力が身に付くのであろうか。例えば、最近はやりの棋士藤井聡太は、テレビを見ず、インターネットも将棋に関するもの以外はあまり見ないという。そのように、同じような環境で親が子に将棋を打たせていたら、仮に将棋に興味を示さない子であっても優れた棋士になるのであろうか。やはり天性がなければ習慣が身に付くということはないと『書経』は言っているのではないか。これは一般に解されている「習い性となる」とは全く逆の解釈になる。習慣づければ天性みたいなものになるのだから、あんたも頑張りなさいと子供に教育を押し付ける親をいまだに生み出すこの慣用句が、実は逆に習慣が身に付くかどうかは、その子の生まれ持った性質に関係づけられているから、そのことを無視して躾や習い事をさせても無駄ではないかということを示唆していることになり、大変興味深い。

 

 

伝統的な解釈に慣れ親しんだ人(私も含め)には、些か牽強付会と思われるかもしれない。正直なところ、私自身も初めは自分の解釈に自信が持てず、やはり伝統的な解釈が正しいのではないかと何度も自問した。しかし「成」という漢字の意味から考えると、習慣が成熟するという骨格は崩れず、「与性」という言葉の意味を考えていくと、どうしても「習慣が天性になる」というような意味では解せなく感じられてくるのだ。
よって、ここに広く管見を世人に問うために、一文をものした。

 

 

妻の解説

妻の残念な頭では、後半の結論部分しか理解できないです。

うむむ。

 

でも、夫のいわんとするところは、つまりは、

「なんでも習慣にすれば第二の天性になるといわれていたけど、元々の資質がないと意味がないよね?」ということである。と思う。

これはなかなかショッキングで、近年は資質が大事、ということはとっくにわかっている。この「習い性となる」の解釈が、最後の砦だったのではないだろうか。

 

資質が大事というのは、実はみんなとっくにわかってたと思う。

やればできるというのは幻想なのだ。

できるのは、自分の資質にあったことだけなのだ。

 

だから、私が英語がいつまでたってもマズいのは、致し方ないことなのである。