スルメ雑記帳

スルメ大好きな夫の書いたものを、妻がアップしているブログです。妻の解説もあるよ!

文化的な最低限度の生活

 

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   今日は採点の仕事のせいか、疲労困憊といった体で、元気が出ない。しかし、こんな時も白いご飯をたらふく食ってぐっすり寝られたら、翌朝には潑溂としているのだから不思議なものである。自殺を考えるほど思い詰めている人に、どうせ死ぬなら、白いご飯を食べて、ぐっすり寝てからにしてはどうかと説得したら、恐らく半分以上の人が自殺を思い留まるのではないか。しかし、白い飯がたらふく食えなく、安心して寝られる場所がなければそれも難しい。そう考えると、憲法にある「文化的な最低限度の生活」とは、その二つを得られることではないかと思われてくる。

 

  嘗て、あるテレビ番組で、長いことホームレスをしている人のドキュメンタリーを見たことがある。ゴミ箱に捨てられた雑誌を漁って換金した、なけなしの金でカップラーメンをすする生活を送っていたが、市の清掃の仕事を得られるようになり、仕事の後に定食屋で餃子定食を頼み、ほかほかの大盛りの白ご飯を美味しそうに頬張るその人の姿を見て、何とも言えない感慨を覚えたが、その人はまだ安心して寝られる寝床はないにせよ、「文化的な最低限度の生活」に近づいているように思い、胸が熱くなった記憶がある。

 

  ところで、よく言われるように、現在の日本国憲法は明らかに下書きとなっている英文があり、25条の「文化的生活」は「cultured living」の翻訳とおぼしいが、では当のアメリカ人が困窮した場合に欲する食べ物はやはりパンなのか、肉なのであろうか。奇しくもcultureの語源が「耕作」と関係があるように、やはり日本人にとっての「文化的生活」に欠かせないのは、田で作られた米ではないか。そんな思いを抱かせる事件が嘗てあった。それはたしか福岡で生活保護を止められた男性が「おにぎり食べたい」とメモを残して亡くなったという事件である。生と死のはざまでもがき苦しむ人が「文化的な最低限度の生活」を送ろうとしたときに、「おにぎり」を求めたというのは、いわば魂の叫びのように痛切に感じられる。

 

少し話は飛ぶが、いつだったか村上春樹の小説を初めて読んだとき、「お前好きだ」というような文章に出会って、違和感を抱いた。それから他にもいろいろな小説を読んでみたが、確かに読ませるものはあるけれど、「お前を好きだ」という日本語を使う人物への不信感が与ってか、結局村上春樹は好きになれなかった。

 

「好きだ」という語は所謂形容動詞で、「部屋がきれいだ」という言い方と同じく、この場合は「お前が好きだ」というのが正しい、というより、子供の頃から自然に身に付いた私の母語の感覚ではそうだ。「お前を好きだ」という表現は下手な英文和訳のようで、どこか心に響かない表現だ。同様に「おにぎり食べたい」という表現をみると、「おにぎり食べたい」なのか「おにぎり食べたい」なのかで大分違ってくるように思う。もしその亡くなった方に尋ねられるなら、そんな悠長な質問は馬鹿げているが、省略された助詞は「が」ですか、「を」ですかと聞いてみたい。私はきっと「が」だと思う。

 

  希望の助動詞「たい」は、「い」で終わっていることからも示唆されるように、元来は形容詞の一部であった。恐らく「ねぶたし」(=ねむたい)のような形容詞が「ねむりたい」のように解釈されて願望になっていったのであろう。古語の願望の助詞(例えば「ばや」)は通常未然形に接続するが(まだ実現していないから)、「たい」が形容詞なら用言なので連用形接続になり、破格(未然形接続でない)なことも納得がゆく。従って、「食べたい」という語は、動詞の性質のほかに、「ねむたい」と同様に形容詞的な性質も備えているということになろう。

 

  ところで、国語の形容詞は話し手の心情を表すという特質がある。例えば、「彼は悲しい」という表現がおかしいのは、彼は話し手でないのに話し手の心情を表す形容詞を用いているからであり、「彼は悲しがっている」や「彼は悲しいと思っている」のように動詞にして客観化しないと国語としては表現できない。また、例えば「風が冷たい」という日本語の表現は客観的事実を述べているのではなく、話し手にとって冷たい風が引き起こすつらさを表している。もし「風が冷たい」を「The wind is cold」と英訳して満足しているとしたら、英語はおろか日本語も分かっていないことになろう。多少煩雑だが、The cold wind blowing me makes me sad.ぐらいで訳しても意を尽くしていないことになる。

 

  このように国語の形容詞は、一見客観的な記述に見えるような文であっても、常に話し手の心情を表しており、「食べたい」にも同じことが当てはまる。例えば人を主語とした「カレーが食べたい人」、ひどいのになると「カレーを食べたい人」などはともに誤りで、「カレーを食べたがる人」か「カレーが食べたいと思っている人」のように動詞化しなければならない。他に「欲しい」も形容詞なので、「犬が欲しい」と話し手の心情を表し、第三者についていう場合は「犬が欲しいと思っている人」と動詞化しなければならない。しかし、最近では「犬を欲しい人」のような誤用を目にすることが増えている。

 

  少し話が長くなったが、以上を踏まえると、ホームレスの人が思う「風が冷たい」という思いと同じように、福岡で亡くなった方もきっと「おにぎりが食べたい」と思ったはずなのである。それが私の言う「魂の叫び」である。ところが、村上春樹流に「おにぎりを食べたい」と言ったと考えると、「おにぎりを食べる」という動作の客観化を踏まえ、それを願望するという形になり、死に瀕している状況で発するには間延びしているように思われるのだ。

 

  村上春樹の作品は世界各国で翻訳されていて、今や日本文学を代表するような言われ方をするけれど、紫式部川端康成のように大和言葉に親炙していた人たちの表現とは実は雲泥の差があって、普遍性があるのかもしれないが、国語で、日本語で語らずにはいられないことの必然性が感じられない。きっと、「お前好きだ」という表現を普通に使う作家には、切羽詰まった人の気持ちが分からないのではないかと疑ってしまうのである。

妻の解説

今回は、前回の記事と比べると、かなり読みやすくなっている!

妻でもまだ理解できる!

 

facebookでも紹介したところ、知人友人から、「難しい!」という声が多数だったと伝えたせいだろうか。

こんなお堅い文章だれど、じつは夫はサービス精神旺盛なのである。

 

さて、文中ではいわゆる「てにをは」の使い方から、日本語の心情の表現のことまで書かれていて、相変わらずよくわからないところもありつつも、大変面白かった。

 

ひとつ補足をしておくと、村上春樹氏は国文学を愛する両親の元でそだったという。古典の話ばかりする環境に嫌気がさし、外国文学への傾倒するようになったそうである。

 

夫は逆で、語学に適性があり、フランス文学をはじめとし、各国文学を原書で読んでいくうちに、どうしても分からない・越えられない壁を感じたという。そのときに、国文学に出会い、これだ!と感じたそうである。

 

春樹氏はいわば、普遍性への挑戦である。かたや夫は、日本という風土で培われてきた言語や感覚をあきらかにし、大切に感じている。水と油みたいなもので、共感できないのも当然である。

 

どちらが正しいというものではなく、どちらにも魅力があるのだと思うのだが、やはり妻としては夫の側に立ちたい。なぜなら、個人の人間もそうであるように、自分を知り、自分である存在は、自然であるだけでなく、魅力的だからである。

 

文中からうかがえるように、夫は白ご飯が大好きである。しかも、日に三度、夫が白ご飯を美味しく食べられるように、妻はオカズづくりに追われている。

ここでささやかに主張しておきたい。

 

2回目の投稿であるが、前回は始めたばかりのブログでありながら、一日に100アクセスを記録した。読者の皆様に深謝したい。